こんにちは。岐阜市のお米屋。
お米の熊田の熊田英朗です。
当店はJR岐阜駅南口より徒歩5分の加納本町6丁目にて営業をしています。
地域の皆様に愛されるお米屋を目指して日々頑張っておりますので、応援よろしくお願いします。
当店の思い
現在日本にはお米の種類は約400種類ぐらいあります。
皆さん、お米の銘柄と言って連想するのは、こしひかりや岐阜だとハツシモという方が
多いと思いますが、
ただここ数年は各産地で新品種のお米が続々誕生しています。
最近だと北海道のゆめぴりかや山形県のつや姫のヒット以降、各地域で
その地域ならではの個性的なお米が誕生しています。
ただ皆さん美味しいお米を食べたいという思いがありますが、いざ購入しようとすると
新しい品種のお米はホントに美味しいのかと疑問を抱くことが事があると思いますし、
1度に5キロを購入となると多いと感じる方も見えると思いますので、
そういう方にぜひ手軽に食べて頂きたいので1キロから販売しております。
また最近のお米は粘りがとても強いお米や逆にさっぱり系のお米等色々とありますので、
そうした食べ比べる事を楽しんで欲しいです。
今の世の中は食べるものが豊富で、お米に対しても主食というより嗜好品という傾向がありますので、
1キロから購入する事で例えば今回はゆめぴりか、次はつや姫と楽しんで欲しいです。
それこそ今はお米も男性と女性で好みの差がありますし、家族でも親さんと子供さんで好みの違いが出ることが
あります。そうした家族でご飯が話題になって皆さんが
笑顔になれば何よりです。
当店はこだわりのお米を店頭精米にて1キロより販売しておりますが、当店が店頭精米をしている理由は、
普段自分たちの街で生活している方。特に1人暮らしのご高齢の方が年々増えており、
そういう人たちにとってはいわゆる袋詰めの5キロ等はとても多すぎと思います。
そういう皆さんに手軽にお米を購入して頂きたいので、1キロより店頭精米をしています。
また以前に、お客さんとお話をした時に「自分らは、若い人と違い車は運転出来ないし、
また体力も無いのでどこか行こうという気力も無い、また何か欲しい物も無い、
ただそんな中生きているうちの唯一の楽しみは食べる事しか無い。」
また「食べる量は少ないけど色々な物を少しづつ食べたい。」と言われた事があります。
そういう状況で自分が米屋の仕事を通して地域の皆さんに何が出来るかと考えた場合、店頭精米によるお米の販売だと思いました。
趣味はマラソンです。
マラソンを始めたのは、高校2年生の夏からですが元々始めたきっかけは、学校で
色々といじめを受けたからです。
正直当時はとても辛かったですがいじめを受けた事で自分自身強くなりたいと思い
強くなる為には体力を付けたいと思い走り始めましたが、いざ走ろうと地元の小学校のグランドを走り始めると
当時は体力が無くてグランド1周を走ってバテバテの状態で、あとはずっと歩いている状況でした。
しかし走り続けているとだんだんと走る事に身体が慣れてきて少しづつ走る距離が伸びてきました
そういう最中、1年後、高校3年生になり体育の授業で持久走の記録会がありました。
当時走るメンバーはクラス分けされ選定基準は高校2年生の時の記録が速い人から中盤までがAチームで
中盤以降、最後尾までがBクラスというクラス分けで、自分は当然Bクラスのメンバーといっしょに走る事になりました。
それで記録会の日、今も鮮明に覚えていますが、当日は天気は雨でしたが、最初にAクラスの人が走って、その後に自分たちBクラスが
走りましたが、記録会の終盤に自分がBクラスの先頭を1人で走り始めたら、周りで観ていたAクラスの人からどよめきがあり、
「あれ熊田だろ。」「うそやろ。」等の声が聞こえて来ましたが、結局自分は記録会で1位でゴールする事が出来ました。
それで高校を卒業しても走る事が習慣になっていたのでずっと趣味で走り続けていましたが、ただ1人で黙々と走るのではなくマラソン大会に
参加して自分の力を試してみたいと思い22歳の時に、いびがわマラソンのハーフマラソンに参加したら何とか制限時間内で完走出来はとても嬉しかったです。
それから24歳の時に、今度はいびがわでフルマラソンに初挑戦をしましたが、正直走り始めた時の事を思えば自分がフルマラソンに挑戦するような日が
来るなんて夢のようでした。それこそ完走出来なくても良いので行ける所まで行こうという思いで参加しましたが、やはりフルはハーフと違い脚の疲労感が
半端なくてホント走っていても辛かったですし、途中何度も止まって歩いてしまいましたが、何とか完走する事は出来ました。
しかし、走り終わってからは、身体の疲労感や階段の上り下り等が辛くて1週間走れない状況でした。
夜叉ヶ池マラニック挑戦
その後各地のマラソン大会に色々と参加していましたが、岐阜で毎年7月末に夜叉ヶ池マラニック(132キロ)という
ウルトラマラソンの大会があるという事を知り、自分自身、当時自分の限界に挑戦してみたいという思いがあり、
挑戦するなら20代の若い頃が良いと思っていたので、27歳の時に夜叉ヶ池マラニック(132キロ)に挑戦しました。
初めて挑戦した時は天気が雨でしたが、普段の大会と違い沿道にほとんど応援の人がいなくて参加者も300名という事も
あり、ほとんど自分1人で走る大会でまさに自分との戦いのマラソンでした。
コースは1日目は神戸町の役場から坂内村の体育館まで42キロを走って2日目は夜叉ヶ池の頂上まで行って神戸町の役場まで走る
90キロという大会でしたが、1日目を何とか走って2日目も朝から走ろうと思っていたら、
台風の影響で暴風警報が発令されて大会が中止になり大会本部の送迎バスで帰るか自己責任でコースを折り返して
ゴールまで走るかという選択になり自分は、走る事にしましたが、いざ走り始めると暴風の影響で
目が開けれなくて下を向いたまま走り続けて更に時折降るヒョウが身体に当たって痛くてまさに試練の走りでした。
それで初挑戦は不完全燃焼で終わってしまいましたが、翌年また挑戦する事にしました。
そして翌年当時28歳の時は前年の台風と違い梅雨明けの真夏の晴天で気温も35度とまさに時は来たという感じでした。
それで1日目の42キロは何とかゴールして、食事は坂内村でこの時期に開催されている雨乞い祭りの会場にて色々な
屋台の食べ物を食べて空腹を満たしました。
いよいよ2日目は朝3時30分スタートでしたが、正直前日の午後9時から睡眠時間でしたが、やはり人のいびぎや寝言等が
気になったりして落ち着いて寝れなくて身体を休めるのみでスタート時間を迎えました。
いざ走り始めると7月とはいえまだ朝は暗いので頭に着けたヘッドライトで足下を確認しながら走りました。
それで今回の大会のメインの夜叉ヶ池の登山道の入口に午前6時頃に着いて頂上(約1000メートル)を目指して
1時間ぐらい登りましたが、頂上に着くと池があり霧が掛かっていて幻想的な雰囲気でしたが、頂上に着いた時は気持ち良かったです。
その後は下山してゴール地点の神戸町の役場を目指して走り始めましたが、やはり身体の疲労もありますが日差しが強く暑くて
走っていても辛くて辛くて途中何度も立ち止まり各地点の制限時間を気にしながら何とか制限時間ギリギリで完走できました。
ただウルトラはフルと違い身体への影響が大きくて両足の爪が全部割れたり足の裏の皮がめくれたり足が炎症を起こして神経がなかったので
しばらく足を氷水のバケツに着けたり、ウエアの摩擦で又ずれがひどかったです。
正直夜叉を走った後はしばらく走りたくないなあという気持ちになりましたが、お盆が過ぎて身体の調子が戻ってくると又走りたくなり、翌年29歳の時に
参加しましたが、120キロ地点で脚が全く動かなくなり棄権しました。
その次の年は30歳の時は参加しなくて沿道から応援という形で走っている人を観ていましたが、いざ観ていると自分はここで何をしているんだという思いが
強くなり31歳の時に挑戦しましたら、何とか完走は出来ましたが、32歳の時にまた挑戦して110キロ地点で棄権をして更に家に帰って3日後に夏なのに
異様な寒さを感じて医者で診察を受けたら熱中症と診断され点滴を受ける事になりました。
これで自分の中で夜叉ヶ池マラニックには一区切りを付けました。
結局夜叉ヶ池マラニックは5回挑戦して2回完走。2回棄権。1回大会中止という現状ではありますが、正直自分自身体力の限界を知りたいという思い
からよくここまで出来たなあと思っています。
夜叉ヶ池マラニックは5キロ事のエイドはありますが基本自分との戦いでもあり走っていると同じような景色ばかりで自分は進んでいるのかと幻覚を
感じる事もありますし、一番辛いのは孤独感ですね。
正直肉体的な辛さより精神的な辛さの方が自分は大きいですね。
その後も毎年11月のいびがわから3月の長良川マラソンまで、岐阜のマラソンの大会に毎年参加していますが、
何だかんだ走り続けていると昔は趣味がマラソンです。と答えると地味、ネクラ、何を考えて走っているの?等
色々と言われましたが、そん中でも走り続けていると、ちょうど東京マラソンが開催されるようになり、
その頃から段々とマラソンに対する世間のイメージが変わってきて今では趣味がマラソンです。と答えるとブームに乗って
走っているのと言われるようになりましたし、町中で走っている人を見かける機会が多くなりましたね。
そうした中自分も東京マラソンのような大都市で開催の華やかな大会に参加してみたいなあと思っていたら、
大阪マラソンが開催されるになり参加者の応募に申し込んだら何と当選して驚きでした。
さらに大阪マラソン参加にあたりマラソンへの思いを新聞社へメールを送くったら後日新聞社から取材をしたいという
事で連絡があり驚きました。
ちょうど走り始めて25年でしたのでとても良い記念になりました。
そういう意味で最近マラソンの大会で走っていると沿道から応援を頂くととても嬉しいなあとひしひしと感じます。
自分の仕事もお客さんという自分の事を受け入れてくれる人がいるから成り立つのであり、これからも米屋を通して
お客さんに共感したり喜んでいただけるような仕事をしたいです。